「パパゲーノ」
死にたい気持ちを抱えながら「死ぬ」以外の選択をしている人
この「ももさんと7人のパパゲーノ」というNHKで放送されたドラマ
結構前に放送されたドラマなのですが、昔書きなぐったものが出てきたのでこちらで成仏させておくんなんし
ドラマの中で出てくる、自分の中の「死への思い」を抱えるももさんとその彼氏の会話。
ももさん「例えば テレビで社会の声的な特集を見た時とか あと美容室で思った髪型にならなかったり 友達に勘違いされたりとか」
彼氏「そんなんで死にたくなる? 弱くない?」「死にたいやつ 焼肉食べないからね」
彼氏「大体ね ちょっと辛いことくらいはみんなあるから」「おれもそうだし」
辛さに高低なんてない
そんなことでと人は言う。俺の方が辛い思いしている。あの人の方が辛いんだよ、と。
日本に生まれた時点で勝ち。戦争が起きている地域じゃなくて、平和な国に生まれたんだから。
それはわかる。私の感じる苦しみは他者の苦しみよりも全然小さい。私の苦しみなんてしょぼい。
ただ、思うのは。
人によってキャパが違うのではないかと。小さな喜びで幸せを感じる人がいる一方で、大きな喜びでしか幸せを感じられない人がいるように、人にはそれぞれ感情のキャパがある。だから、苦しみや悲しみ、辛さは人と比べられない。
目の見えない感情だからこそ、人は自分のキャパの範囲で物事を考えてしまう。
「誰だってそうだ」「わたしだってある」「それぐらいでへこたれてんな」「その程度で落ち込まないでよ」
私たちを襲う苦しみの共有と強制。より一層、この世で息をするのが苦しくなる。
でも、でも。自分くらいは、例え小さくても自分の苦しみを認めてあげてもいいじゃないか。気持ちを肯定してもいいじゃないか。そこに他人が入りこむ余地なんて本当はないんだから。
その程度なんて言わないでよ。辛いもんは辛い。
今感じている気持ちを赤の他人が完全に理解することなんてできない。だって実のところ自分だってよくわかっちゃいないんだから。
だから、心が辛いと叫んでいることに気づいたとき、無視しちゃいけない。
心はいつだって正直なんだ。私がそれを時として無視して気づかないふりをしてしまうだけで。
死にたいぐらい辛い思いをしたからこそ、他者の痛みに寄り添える
繊細なんだと思う。自分の痛みに。心が発する警告に。
痛みに向き合った時間は、決して無駄じゃない。誰かの感じる痛みに寄り添えるんだと思う。
一度も傷ついたことがない人、死にたいと思ったことがない人に本当の意味の「死にたい」などわからない。だってその感情が沸き上がったことがないんだから。心が傷ついたことがないんだから。
その人たちにはそのままでいてほしい。強い心で歩いて行ってほしい。でも、「死にたい」を否定しないでほしい。
その選択肢があるからこそ、生きられるのだ。矛盾してるって思うかも。
でも、いつ死んでもいいと割り切っているから、辛いことがあっても耐えられる。逃げ道なんだよね。
自分の心に嘘つかなくて生きていられるって結構楽。
「死にたい」と思う自分も本当。
「だけど死ぬのは怖い」と思う自分も本当。
なんでもいいじゃん。生きててもいい。死んでもいい。
「生きていたらいいことあるよ」「死ぬなんてだめ、迷惑」
上っ面の言葉よりも、ただ私のそばにいて寄り添ってほしい。ただくだらない話をして笑い合っていたい。
その積み重ねが毎日を生きる理由になる。
何でもない毎日かもしれない。いいことなんかないかもしれない。
それでも同じ気持ちで同じ方向を見て歩いてくれる誰かがいれば生きていられる。
この物語をありがとう。
あとがき
NHK公式サイトがパパゲーノたちに寄り添うHPを未だに残してくれています。
少し気持ちが軽くなるかもしれない