名も知らぬ人の死に、涙を流せる君の横で

毎日のように世界のどこかで、人が死んでいる。

まぎれもない事実で、だれもが分かっているはずなのに意識せずに生活している。

意識したら生活できなくなる、笑えなくなるという方が正しいかもしれない。

事故、病気、老衰、自死、他殺、戦死、災害

死因は人それぞれ。聞いたことない名ばかりがニュース一面を占める。

一瞬想い馳せ、次の話題へ移ろうその様は、何百回何千回と繰り返されてきた。

悲しくなるだけ。かわいそうだと思うだけ。

それだけだった。

しかしながら、名を知らぬのに、涙が止まらなくなる人の死というものがある。

私にとってそれは、歴史に残る(残ってしまう)死である。

特に戦争と災害に巻き込まれた人たちの死は、一粒の光をわたしの目から零す。

2011年3月11日。

テレビや新聞の報道で、死者が増えていくことを目の当たりにした。

だんだん数字が大きくなっていく。見たことない死者数をカウントしていく。

今までの人生の中で、目の前にいた最大の人数よりも上回ってしまうと想像が難しくなる。

どれだけの人がなくなったのか。もう、考えが及ばない。

いつしか、日々増える数に目が慣れてきてしまった。脳が処理を止めてしまった。

そんなときに新聞を開いた。吸い寄せられるようにページをめくった。

そこにあったのは一面を覆いつくす人の名。きちんと整理され、読み取れるように刻まれた名。

いつもより黒々と光る紙面は、離れてみれば人の名前かはわからないだろう。

それほどまでに整理され、一様に並んだ名を見てはじめて亡くなった人の数を体感した。

どれだけの人が亡くなったのかを感覚的に理解したと言っていい。

数字は便利である一方で、そこに生きていた感情ある人を無機物にしてしまう。

数字から読み取れる情報は、ほとんどないのだ。

名前がくれるのは「こんなひとだったのかな、この地方出身かも、お年寄りかな、女性かな男性かな」という一人の人間を想像させてくれる時間。

死者の名が連なる紙面は、わたしに考え悔み、現実を確かに見る時間をくれた。

自然と零れた涙は、静かに紙面を濡らした。

死者2万人を超えた災害は、名前を一人一人読み上げる時間をも奪い上げ、ただ事務的に処理することを強いた。

わたしたちは強烈な死者数を前に、目を背けた。

それでも一人一人、人生があり、生きた道がある。

たかが名前。されど名前を見るだけで、わたしたちは想像できる。確かに生きていた息吹を感じられる。

顔も見たことない、話したことない人の死に涙を流すのは、想像力が豊かで繊細で、理不尽な死に対して怒りが満ち溢れてしまうからだと思う。

人の痛みを自分が受けたように感じられる。

世界にはそんな人がたくさんいる。

名も知らぬ人の死に、涙を流せる君の横で。