攻撃性のあるひと、控えめな人、大人しい人、パワハラ気味の人。
中央値のような普通の人、外れ値のような関わりたくない人。
そういった多様な人間からなる社会で私たちは生きている。
そんなあらゆる人に富んだ社会でも、私たちなりの「常識」や「普通」といったものが存在する。
常識は私たちが生きていく上での決まり事。
では、普通とは一体なんだろうか。
私が普通という言葉に敏感になったのは、ある出来事がきっかけになっている。
中学1年生のころに三者面談があった。母が隣に座って、目の前に先生がいる違和感に戸惑った。
話の中心は勉強のことや生活のこと。どの三者面談も同じだろう。
話を進めていくなかで、担任の先生から「学校生活どう?」と聞かれた。
なんて答えようと頭をひねりながら、「・・・普通です」と答えた。
こう答えた私を見ながら、先生は「普通って何?」と鼻で笑った。
何かばかにされたような気がして少し胸が痛みつつも、私が伝えたかったことは「普通」という言葉では伝えきれないのだなと思った。
彼には「学校生活が普通である」というのは意味が分からなかったのかもしれない。
楽しいか、辛いか。
それらの言葉が期待していたのだろう。
「普通」
いいこともなく、悪いこともない。可もなく不可もなく。
これといって楽しい毎日を送っているわけでもなく、特段虐められているなどの悪烈な環境にいるわけでもない。
ささいな喜びや、油断した時の誰かの言葉に傷つくことはあっても。
私はそれを「普通」と呼んだ。
いい意味にも悪い意味にも聞こえ得る言葉である。
毎日が苦しい人にとっては「普通の生活がしたい」。
毎日が楽しく人生のピークを迎えている人にとっては「普通の生活に戻りたくない」。
・
中学生の私は、なぜ「普通」という言葉を自分の生活に当てはめたのか。
先ほどの理由以外の答えがあるような気がした。そして考えた。
おそらく、あの頃は退屈だったのだ。
流されるままに生きていた。何も行動しようとしていなかった。夢がなかった。
それを「普通」という言葉に込めた。便利な言葉を使った。
使い勝手のいい「普通」。便利な言葉はときに感情を覆い隠す。
これだけの言葉を持ちながら、私たちは自分の感情をうまく表現できない。
本当に伝えたかったのはきっと、私は「退屈で」「彩のない」「ぼんやりとした」世界にいるということ。
楽しかったら、普通なんて言わない。
辛かったら、普通なんて言わない。
ただただ白黒の世界に、笑うことも泣くこともなく心臓が動いているから生きているだけ。
それを私は「普通」と呼んだ。
先生の思う「普通」と私の思う「普通」は違ったのだろう。
・
苦い記憶が私をくすぐり、いま問う。
「最近どう?」