この記事というか、Twitter(現:X)で見かけた漫画に超共感したんですよ。わかる!!
この方は「好きなことを見つけて仕事にしよう」という言葉にしんどさを感じて、好きなことっていうのは「見つける」よりも「選ぶ」ってことじゃないかと問題提起してます。加えて「小さな好き」と「強い好き」が人によって異なることにも言及。
それな!という言葉以外にもう見つかりません。語彙力残念な女ですわ。
私はこれをちょっと違う方向で感じてまして。そう、あれです。推しブームです。肩身が狭いことなんというか。友達はみんな当たり前のように推しがいます。アイドル、俳優、音楽、スポーツなどなど、もはや推しがいないことは人権ないです。はい。第一志望の大学落ちて浪人しているときも同じ気持ちになりました。あの頃も「お前の所属なんだよ、ニート??」という声が天から聞こえてきました。幻聴とは言わせないぞ。
何はともあれ、人権ないんす。なぜかみんな当たり前のように推しがいる。どこから湧いてくんねん、推しって。
近年人権を獲得した「オタク」も昔々馬鹿にされてましたね。きもいとか何とか言いやがってbyオタク
あれは究極に「推し」ブームの最先端を走ってたことになる。オタクに時代が追い付いてなかっただけだったのだ。時代がやっと追いついたことになる。すげえ、オタクって。その「強い好き」を感情薄目人間(ぼく)に分けてほしいっす。
ん??本当に何も好きじゃないの?趣味ないの?つまんない人間だなという声が聞こえてきました。幻聴かな?
好きなことはありますよ、私にも。人並みにテレビ見るし、映画見るし、音楽聞くし、スポーツも見ます。でも、、、一つに深入りすることがないのです。誰かを追いかける情熱が私の中にはないのです。
推しがいる人から見たら変な人間に見えることもあるでしょう。でも本当にいないんです。均等に好きというか、ちょっとずつうっすらと好きというか。なんでこんな人間に仕上がってしまったの、おかあさまの腹の中からやり直すか。
好きは好きなんです、上記の記事を読んで私の中にある「好き」は「小さな好き」なのだとすぐに分かった。好きにも度合があるのだとなぜかちょっとホッとした。
一番困るのは人に「小さな好き」を話せないこと。だからなんやこいつつまんないやつやで、って思われる。「私、俄かだしな…」と自分が少しでも好きだと感じることをだれかに話すことをためらってしまうから。自分の「好き」は小さいから、熱意ある誰かと対等に話せるほどの知識はないからと、声にだすのが億劫になる。
そんな自分を見て思う。
「強い好き」でなければ話しちゃだめなのだろうか。「強い好き」が偉いのだろうか。
私はみんなと違って同じような熱量でモノやヒトを好きになれない。そこまでのめりこめない。
心の奥底から好きだと自分では思うが、好奇心旺盛という性格上、いろんなものが平等に少しずつ好きなだけだと思う。
だから「野球大好き!」とか「アイドル大好き!」とかいう人たちの「強い好き」を見ると羨ましくなる。そこまで深く突き詰めて追いかけることができないから。
私たちが持つ時間は平等である。だからこそ1つのものが好きならば、それだけに深い愛を注ぐことができる。
私にはそれがとっても羨ましいことなのだが、残念ながら私は自分の時間を多くのものに平等に浅い愛を注ぐことしかできない。
浅い愛と聞くと、深い愛を持って接する人からしたら鬱陶しく思う時もあるかもしれない。もっと熱量もってよ!と。
私もそう思う。そうしたい。しかし浅い愛しか向けられない。
そんな自分が一時期は嫌だったが、今は浅い愛で色んなものを愛せるのは長所なのではないかと思う。
様々なことに興味を持ち、接し、笑ったり涙を流したりしてその時を楽しむことができる。
刹那的に愛することができる。
私の「浅い愛」はこれからも様々な方向に向いていくのだろう。そんな自分をまずは愛そうと思う。